黄山伐の戦いと百済滅亡は、660年に朝鮮半島で起こった三国時代の悲劇的かつ決定的な出来事です。7世紀中頃、百済は義慈王の初期には強盛でしたが、次第に内部分裂と国政の混乱に苦しむようになりました。一方、新羅は金春秋(後の武烈王)の主導のもと、唐と羅唐同盟を結成し、三国統一の野望を燃やしていました。唐は東アジアでの影響力拡大を図り、新羅の要請に積極的に応じました。 660年、唐の蘇定方率いる13万の大軍が海路で百済の西海岸に上陸し、新羅の金庾信率いる5万の大軍が陸路で百済の首都泗沘城へ進撃しました。百済は両面からの挟撃という絶体絶命の危機に瀕しました。この時、百済最後の忠臣である階伯将軍が登場します。彼は5千の決死隊を率いて黄山伐で新羅軍を迎え撃つことを決意しました。階伯は出陣前、自らの家族を殺し、兵士たちに退路がないことを示し、百済への忠誠心を最大限に引き出しました。 黄山伐で繰り広げられた戦いは、百済決死隊の凄絶な抗戦により、新羅軍を何度も挫折させました。数的に劣勢であるにもかかわらず、階伯将軍と兵士たちは必死に戦いました。新羅軍は、花郎の官昌の犠牲など、幾度もの激戦の末、ついに百済軍を撃破し、階伯将軍は壮絶な戦死を遂げました。黄山伐が突破されると、新羅軍は泗沘城へと進撃し、唐軍と合流して泗沘城を陥落させました。義慈王は降伏し、百済は678年の歴史に幕を閉じ滅亡しました。この出来事は百済復興運動の火種を残しましたが、最終的には新羅の三国統一の決定的な足がかりとなり、階伯将軍は忠節の象徴として歴史に長く名を残すことになりました。
